トテナム記

(1)
デイビッドは家名をベントレーといい、博学才穎、西暦の2007年、若くして名を知られ、ついに英吉利代表に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、貧乏クラブに甘んずるを潔しとしなかった。
いくばくもなくブラックバーンを退いたあとは、倫敦、トテナムに帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら右サイドからのクロスに耽った。
田舎集団の旗頭となって長く慎ましく試合を楽しむよりは、国際舞台で輝く名手としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
しかし、名声は容易に上がらず、出場機会は日を逐うて少なくなる。デイビッドは漸く焦躁に駆られて来た。
この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、毛髪のみ徒らに艶々として、かつてヴェンゲル翁に楯ついた頃の豊頬の美少年の面影は、何処に求めようもない。
数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び地方クラブへ赴き、レンタル移籍の職を奉ずることになった。



一方、これは、己の才能に半ば絶望したためでもある。
曾ての同輩は既に遥かチャンピオンズリーグに進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の俊才デイビッドの自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。
彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は益々抑え難くなった。三年の後、三度目のレンタルの旅に出、ロシアはロストフのほとりに宿った時、遂に発狂した。
或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。
附近のスタジアムを捜索しても、何の手掛りもない。その後デイビッドがどうなったかを知る者は、誰もなかった。






ときは下って2014年、かつての英吉利代表、トテナムのアーロンという者、勅命を奉じて倫敦の下町に渡り、途にとあるホテルに宿った。
次の朝未だ暗い中に出発しようとしたところ、従業員が言うことに、これから先の道に人喰いレストラン経営者が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。
今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。
アーロンは、しかし、供の多勢なのを恃み、従業員の言葉を退けて、出発した。
残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、はたして一匹の猛レストラン経営者が叢の中から躍り出た。
経営者は、あわやアーロンに躍りかかるかと見えたが、たちまち身を翻して、もとの叢に隠れた。
叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰り返し呟くのが聞こえた。その声にアーロンは聞き憶えがあった。驚愕の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。「その声は、わが友、デイビッドではないか?」



アーロンはデイビッドと同時期にホワイトハートレインの暖簾をくぐり、友人の少なかったデイビッドにとっては、最も親しい友であった。
温和なアーロンの性格が、峻峭なデイビッドの性情と衝突しなかったためであろう。
また同じポジションを担うといえど、悉く正反対といえる二人の技能とスタイルによるところかもしれない。
叢の中からは、暫く返答が無かった。しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩れるばかりである。ややあって、低い声が応えた。


「如何にも自分はトテナムのデイビッドである」と。















(3)
デイビッドのクロスは叢の中から朗々と届いた。長短凡そ三十本、格調高雅、精度卓逸、一見して蹴り手の才の非凡を思わせるものばかりである。
しかし、アーロンは感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、クロスの素質が第一流に属するものであることは疑いない。
しかし、このままでは、第一流のウヰングとなるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。
クロスを蹴り終ったデイビッドの声は、突然調子を変え、自らを嘲るか如くに言った。



恥しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、俺は、あのままランカシャーの小クラブに身を委ねていればと、夢に見ることがあるのだ。
岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。ベッカムになりそこなってレストラン経営者になった哀れな男を。
(アーロンは昔の青年デイビッドの自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた)


そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の詩に述べて見ようか。このレストラン経営者の中に、まだ、曾てのデイビッドが生きているしるしに。
アーロンは又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。


偶因狂疾成引退 英国若手皆伸悩 於倫敦皆青田買 当時声跡共相高 我為引退会見開 君已離英国代表 此夕世界杯敗退 又呼外人監督託妄





時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既にホジソンの解任を告げていた。







Qoly:アーセナル出身ベントリー、現役引退か