マンチェスター・シティ 選手の思い出 その4

■ダニー・ティアット オーストラリア代表 22 May 1973 1998-2004




僕がダニー・ティアットを知ったのは確か2001年の冬で、その前の2000-2001シーズンのプレミアリーグ・ゴール集のビデオの中だったと記憶している。そのシーズン、プレミアリーグに戻ってきたマンチェスター・シティは、そのときもうよぼよぼだった、かつてミランバロンドールも獲ったジョージ・ウェアを獲得して、途中でチームメートと揉めたがために退団してしまうだとか、そういったずれた方向の努力を積み重ねた結果として、あえなく1年で降格の憂き目を見ていた。そうしてシティはゴール集の中で、「残留できなかった不運なチーム」という形で1分ほどの短い特集を組まれていて、その中でダニー・ティアット、このスキンヘッドのオーストラリア人は、左サイドを必死の努力で持ち上がり、クロスともシュートとも取れる鋭いボールを中に放り込んで、それが直接ゴールに入って喜んでいたのに、チームメートがオフサイドと判定されて無効になってしまう、シティの不幸の象徴のような扱われ方で登場していたのだった。



そのときのティアットの姿、のちにわかることだが左サイドのタッチライン際を駆け上がるドリブルといい、少し足りない技術をガッツと体力でカバーするところといい、どこか結果がついてこない悲しみといい、ティアットの全てを凝縮したようなプレーだったのだが、とにかくその姿は日本の田舎にいた1人のサッカー少年に何ものかよくわからない強い印象を与えて、その後知った天才MFエヤル・ベルコヴィッチのプレーと合わせてだが、僕はマンチェスター・シティのファンになった。







ダニー・ティアットはその後、シティではさほど恵まれたキャリアを送ったとは言えなかった。件の00−01シーズン、奮闘を評価されて、ファン投票のプレイヤー・オブ・ザ・シーズンに選ばれて、その次のシーズンもレギュラーとして昇格に貢献したとのことだったが、僕が定常的にシティの試合を見るようになった2002-2003シーズンには、ティアットの姿がスタメンにあることは多くなかった。監督のキーガンは大体3−5−2か、中盤がダイヤモンドの4−4−2を使っていて、左のウィングというポジションはなかったし、左サイドバックのポジションにはティアットよりも遥かに安定した、ニクラス・イェンセンがいた。なので、ティアットは中盤の左右とか、時には真ん中とか、挙句の果てには右サイドバックとか(いや、僕の記憶には全くないけど、Footballlineupsというサイトにはそう載っているのだ)とにかくいろんな場所で使われていた。出番が減ってフラストレーションを募らせたのであろうティアットは、おそらくキーガンとひと悶着起こし、最終的にはキーガンが「私の知る限り、ダニー・ティアットは“存在しない”」とバカみたいな発言をするまでに至って、レスター・シティに移籍していった。



その後シティの左サイドバックは、ニック・イェンセンがドイツに去ってしまったあと、元バイエルンロートルミヒャエル・タルナトが1シーズンだけ来たり(プレーは良かったが、一体あれはなんだったのだ?)、アカデミーからスティーヴン・ジョーダンという若手が昇格してきたのを重用してみたり、マイケル・ボールとか、ベン・サッチャーとか、U-21代表までは行けたのにねえ、という凡庸な、よく働くのが取り柄というか、それだけが長所の選手たちを使ってみたり、金持ちになってからはウェイン・ブリッジを買ってきて、ありゃ結局テリー事件のネタにされてしまっただけだった、かわいそうなブリッジ、すぐにコラロフが来てしまって、そのあとガエル・クリシも来たりして、正直に言ってしまえば皆サイドバックとしての完成度はティアットよりも上で、あれと比べりゃ安心して見てられまっせという話なのだが、その中の誰も、ティアットのようにこんにゃろーばーろーちきしょーめ、と相手に食ってかかるような、あの頭すっからかんにする代わりに心に燃料を注いでもらったような、あの熱さは持っていないのであった。