今年の3冊【スポーツ編】

友人であるid:heitarosatoの呼びかけで、「今年の○冊」という企画をすることになった。

「ジャパン」はなぜ負けるのか─経済学が解明するサッカーの不条理

「ジャパン」はなぜ負けるのか─経済学が解明するサッカーの不条理

これに加えて、
ゴールは偶然の産物ではない~FCバルセロナ流世界最強マネジメント~

ゴールは偶然の産物ではない~FCバルセロナ流世界最強マネジメント~

蹴球計画 〜スペインサッカーと分析〜
この二つ。



『「ジャパン」はなぜ負けるのか』は『ヤバい経済学』のサッカー版といった趣。2冊目はFCバルセロナの元副会長が2003年から退任までの戦略を語ったもの。最後の蹴球計画はサッカーの戦術を考察するサイト。
これらの意義はなにかというと、サッカーに実証主義を持ち込んだということです。*1
サッカージャーナリズムは印象論の世界です。サッカー雑誌、TVの解説、企画本、どれも文章に責任を持たない。データをとって実証しようという姿勢がなく、「テクニック」「メンタリティ」「存在感」「構成力」「執念」といった曖昧な上に反証不可能な言葉に逃げている。だから文章が巧い人、キャラ付けが上手な人、ヨーロッパや南米に住んでいて日本に伝わってきづらい情報をよく知っている人が有名になる。挙句の果てにはこんなクソくっだらない本が流行ったりする。


たとえば、西部謙司氏。彼は「サッカー戦術クロニクル」なる本を出したり、FOOTBALLISTA誌上で戦術解説コラムを持ったり、「サッカー戦術に詳しい人」的な扱いをされています。でも現実にはhttp://www.plus-blog.sportsnavi.com/ports/が明らかにしたように、現実にと乖離した、まさしく机上の空論を展開しています。西部氏がやったのは、戦術に読者が食いつきそうなキャラ付けをして、それっぽいストーリーを組んでやること。それはそれでお話としてはおもしろいんだけど、なんにも貢献しないよね。


今回紹介したものの真髄は、蹴球計画のこの言葉に詰まっているかと。

「再現性と追試可能性というやつやな」

「その二つは、サッカーでも重要やな」

「ほうかね」

「スペインはロシアに4-1で勝ったけど、その試合を誉める時に、それが再現可能であるかどうかという点は非常に重要になる」

「スペインのマスコミは、ドイツワールドカップの苦い思い出があるから、馬鹿騒ぎの中にも保留の姿勢があった」

「個人の選手の評価でもそうで、なにかを言うためには、その再現性が大切になる」

「選手寸評でも、一試合か二試合見ただけで書いてるやろ、というのは大体外れている」

「そして、追試可能性というのは、サッカーのプレーよりも、書かれるものに関して重要になる」

「書く方か」

「例えば、このチームは、アタッキングゾーンで前を向いて勝負する選手がいない、という文を書いたとする」

「ふむ」

「これに追試可能性を持たせるためには、そのようなパスについて、なるべく具体的なデータを出すしかない」

「当たり前やな」

「それが前のワールドカップの日本代表まとめであったわけだ」

「それがどうした」

「こういったデータを出すのはなかなか面倒くさい」

「ひたすら数えなあかんからな」

「ただ、サッカーの文章は安全な場所から石を投げつけているだけのものになりがちで、それをさけるもっとも有効な方法は、誰もがその内容を検証可能な方法で出すこと、つまり追試可能性をできるだけ高めて出すことやと思うんや」

「要するに、何かを言うなら誰でも確認できる証拠をきちんと添えて出せ、ということか」

「蹴球計画は、その辺を意図してつくられているんだけど、なかなか十分にできない反省を込めてここに記しておこうかと」

「良いサッカー批評かそうでないかを、追試可能かどうかで判断してみるのは面白いかもしれんな」

「誤謬(ごびゅう)、英語でFallacyという言葉があります。これは、簡単に言えば、論理的に破綻している文章が、さももっともらしく聞こえることの理由にあたります。論理的誤謬を知ることで、そのようなものに騙される危険性は減ります。サッカーの文章ではそのような誤魔化しが非常に通用しやすい、という現状があります。書き手の主観を、文章技術や、都合のいい通念や他人の言葉の援用でもっともらしく見せる、というのがその代表です。例えば、スペインは歴史の重みからしてドイツを恐がっている、ゲルマン魂がどうこう、最後に勝っているのはドイツだ、といった通念を利用した説明です。しかし、それが何の意味もないことは、決勝をみればわかります。そのようを文章に騙されないようにする方法は、以前にもあるように、再現性と追試可能性を見ることです。それがない文章は、嘘だと思って読むべきです」

なぜ僕がこの本を「今年の一冊」を選んだかというと、サッカー評論がようやく体系としてまとまるというか、学問までは行かないけど、理論とか仮説って言い出せる段階まで進歩するとしたら、この本がやったようなことを続けていくことが必要と思ったから。今まで論理が通用しない世界だと思われていたサッカーの世界にもきちんとした論理が存在するということで、サッカーと、それにまつわる議論のレベルを上げることについて重要な2冊+1サイトでした。


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※ちなみになぜあの人の言説がくだらないかというと、(1)選手の並びに過ぎないフォーメーションを=戦術、=サッカーの中身とまで論理を飛躍させているところ。(2)「批判してやりたい」という執着だけが先にあって、その論拠として先のフォーメーション頭でっかち論を用いるところ(3)フォーメーション頭でっかち論がおかしいとわかっていながら、炎上マーケティングに近い形で確信犯的に書き続けていること。

こういう人が影響力をもっているのは良くない。オカルトですよ。

*1:もちろん定性的・感覚的なサッカーサイトにも素晴らしいものはたくさんあって、その一つがみどりのろうごくblogさん